お三の宮日技神社

お三の宮日技神社(おさんのみやひえじんじや)

横浜の玄関口「横浜駅」から市営地下鉄に乗り、西へ6つ目「吉野町駅」で降りると、 高層マンションが林立する新しい姿の下町(したまち)に出ます。
駅を出て、弘明寺(ぐみょうじ)方面に向かって大通り(通称・鎌倉街道=県道鎌倉線) を西に3分ほど歩くと、大岡川と中村川の分岐点を背にした木立の杜(もり)の日枝神社 (横浜市南区山王町5丁目32番地)に着きます。
社頭の由緒には、「関外総鎮守お三の宮日枝神社」とあります。俗に「お三の宮」という 名前で知られているお宮です。
日枝神社の祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)です。
今から、340余年前、江戸の木材・石材商の吉田勘兵衛が、お寺の釣鐘のような 形をした入り海を埋め立てた際、この地「吉田新田」の鎮守(守り神)として、寛文13年 (1673)に建てられたのがこのお宮です。

お三の宮の由来

日技神社の起源

お三の宮は、正しくは日枝神社(ひえじんじゃ)と称します。
総本社は、比叡山の山麓にある日古大社(ひえたいしゃ・旧官弊大社日吉神社・滋賀県大津市)で、 ここの祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ・東本宮)と大己貴神(おおなむちのかみ・西本宮)ですが、 日枝神社の祭神は大山咋神です。古事記上巻(和銅5年・712)に次の記述が残されています。
「大山咋神、亦名山末之大主神、此神者坐近淡海国之日枝山」→「おおやまくいの神、またの名は、 やますえのおおぬしの神、この神は、ちかうおおみくに(近江国)の、ひえさん(日枝山・比叡山)に坐す。」
従って、古事記以前の創始は明らかで、遥か悠久の昔といえましょう。
考古学的には、日吉大社周辺の日吉古墳群が6世紀頃とされていますので、かつてこの山頂近くに 祀られていた神様が、このおびだしい古墳群とかかわりを持っていたことと推定されます。
最澄は近江の人で、受戒後の延暦5年(786)に比叡山に入って修行しましたが、これが比叡山 とのかかわりの始めです。延暦23年(804)に入唐、翌年帰朝して天台宗を設立、大和国 3室山の3輪社より大貴己神(大3輪神・大物主神・大国主神ともいう)を勧請して(西本宮)、 古来から比叡山にある大山咋神を山麓に下し(東本宮)、あわせて、中国の天台山国清寺の山王祠 にならって神号を山王と奉り、比叡山の守り神といたしました。
爾来、「山王さん」「山王社」「山王権現」「山王大権現」「山王明神」などが、日枝(日古)神社の愛称・ 別称・旧社名として親しまれて参りました。

お三の宮の語源

お三の宮の語源について、初めて書かれた武相叢書第9巻『横浜旧吉田新田の研究』(石野瑛著)による説や、ほかの説を紹介、私見と考察を加えました。

  1. お三の宮の旧社名である「山王社」が転詑して、「山王(さんのう)の宮」から「おさんのうのみや」「お三の宮」に。
    現在1番支持者が多く穏当な説です。しかし、全国に3千余といわれる日枝神社・日枝社・日吉神社・日古社のなかで、 「おさんのみや」と呼ばれている神社を、ほかに知りません。
    「さんのうさん」と呼ばれている例が多く、「お」をつけたり「宮」 をつけたりして呼ぶ例は他に見当たりません。
  2. お三の宮は江戸赤坂の山王社からの勧請でり、日吉大社→東京赤坂の日枝神社→お三の宮、と3番目にあたるので。
    通説では、江戸の山王社は近江からではなく、戦国の武将太田道灌が河越仙波(埼玉県.川越市)の山王大権現を、文明10年 (1478)江戸城築城にあたり、城内に勧請(後に赤坂)したものとされています。
  3. 江戸の山王社は、近江日吉山王21社の中の、大宮・ニノ宮・3ノ宮であるから、お三ノ宮もその分霊を祀ったので。
    山王21社の二宮(東本宮)は大山咋神ですが、大宮(西本宮)は祭神ではありません。三宮は7番目に位置します。
    また、通常、「ノ」の字はつけません。
  4. 明治初期の古地図には、お三の宮の位置に、「お産の宮」と当て字をしたものもあり、お産の信仰があったのではないか。
    江戸城は、太田道潅からうばった北条氏の臣の遠山氏をえて、天正18年(1590)徳川家康が入城しています。 その際、城内に祀ってあった鎮護の神「山王社」を「徳川歴代の産土神(うぶすながみ」として敬ったことから「徳川幕府誕生の神」とされ、 現在「安産のお札」も提供しています。確かに昔は「お産は女の大役」とされ、子瘤(しかん)や産褥熱などで命を落とす人も多く、 全国至る所に安産の神様が祀られています。お三の宮にもこの種の信仰が、住民の心にあったことは否めませんが、これについての風習や 記録は何も残されていません。
  5. 古田新田埋立ての際の人柱「おさん」を祀ったので。
    古来、人柱伝説は、城郭の建造・堤防の建設・埋立てなどをめぐり、全国各地に遺されています。
    前後9年間に及んだ難工事だった吉田新田にも、「おさん」という女が人柱となったという伝説は、かなり古くより伝えられています。 また時期も、埋立て当時のほか、幕末に近い増水時など色々です。何れにしても人道上思わしくないので、あくまで「伝説」として 片づけてしまう傾向があります。
    しかし、これを否定することよりも、その「伝説」を探求することに意義を求め、その次第を後節に詳述致します。

お三の宮の変遷

武蔵国久良岐郡吉田新田(むさしのくに、くらきごおり、よしだしんでん)の村の鎮守様として村民に 崇められていた山王・稲荷の2社にも、明治維新の嵐を避けることは出来ませんでした。

祠官(神主)の8代角井内記が嘉永年間に病没、9代目の斎次郎が幼少のため別当の常清寺 が面倒をみていたのでしたが、ご維新で「神仏混渚まかりならぬ」とのお達しがあり、明治2年 (1869)氏子総代・名主(吉田家)1同が願い出て、斎次郎を斎之進と改め、まだ未成年で したが祠官として奉仕することになりました。

この際にお役所より、社号をそれぞれ「日枝大神」「稲荷明神」と改めるようにとの指図がありました。 この社号は、明治4年2871)の神社の社格を定めた太政官布告に従い、「日枝神社」「稲荷神社」と 改称され、それぞれ村社と郷社に列せられました。(1945年廃止)この間、昭和3年(1928)9月に日枝神社は、神儀幣・吊供進社に指定されています。

なお、稲荷神社は、昭和52年6月25日遷座合祀の儀が行われ、日枝神社に合祀されました。 その社殿は、神楽殿となっています。
また明治9年(1876)には、「ご維新より神様をより崇敬しなければならなくなった(国家神道の確立) にもかかわらず、巷(ちまた)の道端に神様を放置するのは恐れ多い」との教部省の布達があり、吉田新田内 の道端にあった小祠が翌10年に日枝神社内に奉遷されました。(境内末社)
庚(かのえ)神社=祭神は猿田彦神(さるたひこのかみ)。
もと、松影町にあったもの。創立は、宝暦年間(1751~1764)とも伝えられますが、真偽は不明です。

長者稲荷社=祭神は宇迦之魂神(うがのみたまのかみ)。もと8丁畷北端(今の長者町9丁目)勘兵衛邸脇にあったもの。なお、戦箭縁日で有名だった水天宮境内(長者町1丁目)の「長者稲荷」とは別のものです。

道祖社=祭神は猿田彦神。古来、旅の安全と旅中・の平癒を祈る神様。道祖神の風習は全国各地にあり、感謝の印として草鞍(わらじ)を奉納、社祠の周囲にかかげました。創立年代不明。もと、道慶橋(日枝町1丁目末)橋畔にあったもので、後年奉遷されました。

これら3つの境内末社は、もとは個々の社祠として境内にありましたが、第2次大戦後にもう1つの境内末社の堰神社に合祀されました。
堰(せき)神社=祭神は水速女神(みずはやめのかみ)。
もともとは、吉田新田の用水堰の守護神。新田の最西にあった大岡川の川水を、新田へ取り入れる堰のかたわら(今の山王橋畔の川岸)にあった小祠でしたが、護岸工事の際、街路に面した現在の位置に移りました。境内には、享保8年(1723)の銘のある庚申塔(こうしんとう・道祖神と同じ信仰)があります。
かつて、これも橋畔にあったものです。
また、町内の有志が参詣人を増やそうと、昭和46年(1971)熱海の初島から女陰に似た石を取り寄せ、地元の石職人に彫らせた男陰を模した石と並べた、子宝授かりの「子宝菩薩」があります。

※日枝神社の裏手にあったかつての用水堰は、大堰(山王橋畔)と小堰(元の葭谷橋畔。今の葭谷橋は蒔田公園整備の際南へ移動)とありお三の宮の池に通じていました。
この池は、今の神楽殿から神社の西と南のはずれに及ぶかなり大きなもので、昭和の初年に埋め立てられ、南の吉野橋畔には昭和5年(1930)に寿警察署が建てられましたが、平成元年(1989)には吉野町市民プラザとなっています。